【インドネシア渡航】日本人によってビトゥンの街が栄えた!
北スラウェシの州都から30Km離れた港町であるビトゥンはマグロ・カツオで有名な街ですが、現在のビトゥンの街の発展の礎は、ひとりの日本人漁師である大岩氏が築いたという話を伺いました。魚の街で賑わいを見せるビトゥンの街を紹介したいと思います。
ビトゥン港
北スラウェシにある細長い半島のほぼ先端の位置にビトゥンの街が形成されています。水深が深いことから大型漁船などが出入りすることができ、州都マナドに近い立地の良さから港町として発展しています。港湾整備が進みビトゥン港で水揚げされた水産物などがマレーシア、シンガポールなどへと輸出されています。現在では道路が整備されマナドから高速道路がビトゥンまで伸び、人口も急激に増加していますが、昭和初期(1930年頃)の頃は寂しい港町だったそうです。
大岩氏
昭和初期の時代に、日本人漁民たちがカツオ漁業をビトゥンに持ち込んだおかげで、カツオの街として発展したそうです。その日本人漁民を束ねたのが、愛知県出身の大岩勇氏だったようです。当時、企業や労働者達による南洋進出が盛んな時代に、日本船の大型貨物客船が、日本からパラオ、フィリピン・ダバオを経由してマナドまでを船で結んでいたそうです。大岩氏もカツオ釣り漁師やカツオブシ職人などを連れて日本船に乗ってマナドに渡り、ビトゥンの街に住み着いたそうです。
カツオ漁で発展
昭和13年頃にはマナド・ビトゥンには200名近くの日本人がいて、そのうち半数以上が漁業関係者だったそうです。日本人漁業関係者のほとんどが、大岩氏が設立した大岩漁業に所属していたというから驚きです。大岩氏は現地住民の雇用も促進して技術移転に成功して、現在のカツオの街ビトゥンが創成されたとのことです。その後、昭和20年8月の太平洋戦争敗戦によって日本人による鰹釣り漁業の事業は消滅してしまいましたが、その後、現地住民や日本人に漁業者によりビトゥンは再度復活したそうです。
今はマグロが中心
カツオの街として発展しましたが、現在はカツオよりもキハダマグロの存在感が強まっています。世界的な日本食ブームの中、冷凍技術やチルド配送などの物流が良くなったおかげで、世界中の富裕層達がマグロの刺し身や寿司を食べることが定着しました。
ビトゥン近海では30Kgから50Kgに達する大型のキハダマグロが漁獲でき、さらに値段も良かったおかげで急速にマグロ漁師が増えました。日本人からもマグロの血抜きや内蔵やエラの処理の仕方を教えたおかげで、良質の刺し身用マグロが手に入るようになりました。
ビトゥンにはマグロをロインやGGなどに処理加工する業者がたくさんあります。マグロで一番良質なAグレードはロインで生のまま日本などに空輸されます。B、Cグレードは、冷凍してマレーシアやシンガポール、米国などに輸出されます。10月から12月はキハダマグロの漁獲シーズンらしく、港にマグロ漁船が到着すると検品作業を行い工場へと運ばれていきます。
ビトゥンは大岩氏が発展させたカツオの街から、、日本人によってのマグロの処理の仕方を教えて鮮度が良いマグロが安定的に供給できたおかげで街が発展したと言えるでしょう。ビトゥンはマグロの街へと変化し続けています。
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