ケンダリ沖の小さな楽園・ボコリ島の奥へ。白砂ビーチを抜け、朽ちかけた木橋を渡ってたどり着くのは、手つかずの自然が残るもうひとつの島。魚が泳ぐ透明な入り江で過ごす静かな時間、自然と向き合う旅の本質がここにあります。設備の老朽化という課題も含め、素朴だからこそ心に残るボコリ島の魅力を綴ります。
ビーチでのんびり過ごしたあと、ふと「この島の奥には何があるのだろう」と思い、足の向くままに歩き出してみました。
観光客が集まるビーチエリアを離れると、島の景色は少しずつ表情を変えていきます。
奥へ進むにつれて、使われなくなった観光施設や、海にせり出した朽ちたバンガローの骨組みが目に入りました。風にさらされ、波に洗われながら静かに佇むその姿は、どこか物悲しくもあり、かつてここがもっと賑やかだった時代を思わせます。
橋の隙間からは海の底が透けて見え、注意して歩かなければ足を踏み抜きそうな場所も。日本なら確実に「立入禁止」になっていそうな状態ですが、ここにはそんな標識もなく、通行は自己責任のようです。
少し緊張しながらも、足元に気をつけつつ渡っていくと、橋の途中からは透明な海の中に泳ぐ魚の群れや、サンゴ礁の輪郭まではっきりと見えました。
実はこのボコリ島、浅瀬に囲まれているとはいえ、2つの小島から成っていて、奥の島はまるでジャングルのように鬱蒼とした自然に包まれていました。
そして、その2つの島をつなぐ一本の橋が、海の上に細長く伸びているのが見えてきたのです。
近づいてみると、その木造の橋は思った以上に老朽化が進んでおり、板はところどころ浮き、抜け落ちそうな箇所もありました。
恐る恐る、でもワクワクしながら、一歩一歩を噛み締めるように進んでいきます。
そしてたどり着いたもう一方の島は、まるで手つかずの自然保護区。
ジャングルのように生い茂る木々、人気のない静けさ、風に揺れる葉音と、時折聞こえる鳥のさえずりだけが辺りを包んでいました。
橋を渡ってすぐの場所に、小さな入り江がありました。
波の立たない静かな浅瀬が広がり、太陽の光が水面に反射して、キラキラと優しく揺れています。
入り江の縁に腰を下ろして、しばらくの間ぼんやりと海を眺めて過ごしました。
水は驚くほど透明で、小さな魚が群れになって泳いでいたり、岩の隙間からカニやエビが顔を覗かせたり。
波に合わせて砂がゆっくりと動き、水草が静かに揺れている様子は、まるで水中の世界が呼吸しているかのようでした。
風は心地よく頬を撫で、潮の香りがほんのりと鼻をかすめていきます。
木陰の静けさに包まれ、遠くから聞こえてくる子どもたちの笑い声だけが、かすかに現実とのつながりを保っているような感覚でした。
自然の魅力にあふれるボコリ島ですが、設備面には少し“惜しい”部分が残っているというのが率直な印象です。
船の乗り場やトイレ、東屋(ガゼボ)、更衣室といった基本的な施設は一通り揃っているものの、いずれも老朽化が目立ち、メンテナンスが十分とはいえない状態でした。
木造の休憩小屋は屋根が剥がれかけていたり、床板がぐらついていたり。案内板は色あせて読みづらく、ゴミが散乱している場所もありました。
せっかくこれほどの自然美があるのに、設備の古さや管理の行き届いていない点が、全体の印象を少し損なってしまっているのは、正直にもったいないと感じます。
今後、地元自治体や観光当局による継続的な整備とプロモーションが進めば、国内外からもっと多くの人が訪れ、ケンダリの観光資源としての価値もさらに高まるのではないでしょうか。
それでも、ボコリ島は不思議と心に残る場所です。
煌びやかさや便利さはありませんが、そこには素朴さと本物の自然が織りなす温かさがあります。
白砂のビーチ、海に浮かぶ壊れかけの橋、静かな入り江で泳ぐ魚たち、風にそよぐヤシの葉、そして奥の島に漂うジャングルの香り。
どれも人工的ではなく、自然のままの姿をそのままに感じられる風景ばかり。
ここで過ごした数時間は、特別なアクティビティがなくても、心を満たしてくれる時間でした。
「何もないこと」が、こんなにも贅沢に感じられる場所は、そう多くありません。
名残惜しさを胸に、私はボートに乗って再びボコリ村の船着き場へと戻りました。
次に来るときは、もっと静かな朝や、夕暮れ時の景色も見てみたい。そんな余韻を残しながらケンダリ市内に戻ります。