地図をみると、ナトゥナ諸島は、マレーシアの海上に位置していますが、なぜインドネシア領なのでしょうか?
これにはイギリス、オランダ、日本との歴史に深い関係があります。
1400年 マラッカ王国成立
16世紀 大航海時代になると、香辛料貿易の利を求めてヨーロッパのポルトガル、イギリス、オランダが相次いで来航
1511年 ポルトガル、マラッカを占領
1542年 マラッカからポルトガルの鉄砲が日本に伝来した(鉄砲伝来)
1549年 イエズス会のフランシスコ・ザビエルがマラッカを出発し、日本到着
1602年 オランダが東インド会社設立
1619年 オランダ東インド会社がインドネシアバタヴィア(ジャカルタ)を本拠地とした
1641年 オランダ、マラッカを占領
1795年 イギリス、マラッカを獲得
1819年 現在のほぼインドネシアの領域全体がオランダ領東インドとなり、オランダ本国政府の直接統治下に入った
1824年イギリスがアチェの独立を支援していた為、オランダはスマトラ島北部のアチェ王国を手にすることが出来ずにいたが、イギリスが政策を転換して英蘭協約を結び、イギリスがマラッカを含むマレー半島側、オランダがアチェを含むスマトラ島側を領有するという形の植民地交換が決められた
1874年 イギリス領マラヤ成立
1941年 日本軍がコタバル近郊に上陸 (マレー作戦)。太平洋戦争の開戦
1942年 日本軍がマラヤ及びインドネシアを占領。日本軍の軍政下に入る
1945年 太平洋戦争の終結に伴い、マラヤ・北ボルネオがイギリスの支配下に復帰
インドネシアはこの時独立を宣言した。しかし、オランダはこれを認めず再植民地化に乗り出したため独立戦争を戦うことを余儀なくされた
1946年 イギリスがマラヤに有するクダ・シンガポール以外の植民地の集合体としてマラヤ連合が発足
1948年マラヤ連合の再編とクダ王国の加入によってマラヤ連邦が発足
1949年オランダ-インドネシア円卓会議(通称、ハーグ円卓会議)で、オランダから無条件でインドネシア独立承認を得ることに成功。
1957年 マラヤ連邦が独立
1962年 ~1966年 インドネシアとマラヤ連邦の対立
1963年 シンガポール、イギリス保護国北ボルネオ、イギリス領サラワクがマラヤ連邦と統合し、マレーシアが成立
マレー諸島は世界最大の群島であり、この地域にはナトゥナ諸島があります。
豊富な天然資源があるマレー諸島は、ポルトガル、オランダ、英国の植民地にされ地域を支配するようになりました。
ナトゥナ諸島の歴史は、マレーシアの影響からは切り離すことはできません。
1511年 マラッカがポルトガルに陥落した後パタニ王国(タイ南部パッターニ地方)とジョホール王国がマレーシア地域の新しい勢力として台頭しました。
1528年 マラッカ王家の分流にあたるパハン王家の助力を得て、マレー半島南端のジョホールに移り、ジョホール王国を建立。
ジョホール王国はその時ナトゥナを含むリアウ諸島を支配しています。
ナトゥナの王室の娘の1人がパタニ王国の親族と結婚したときに始まりました。
1848年 マラヤ州にあるイギリス陸軍の領主であるイギリス人が所属する船にナトゥナ島周辺で真鍮(しんちゅう)の大砲を援助した。
ナトゥナのマレー人の歴史は、マラヤと密接な関係を持っていることを明確に示しています。
1824年英蘭協約によりマレー諸島の国境が決定し、その影響は今日まで残っています。
1824年の条約は、ナトゥナ諸島をイギリスまたはオランダの影響下に明示的に置いていなかったと言えます。
1824年の条約は、
イギリス領はマレー半島とシンガポールの北部の島
オランダ領はスマトラ島とシンガポールの南部の島で区分けをしました。
地理的な位置で見ると、ナトゥナ諸島はシンガポールの南にある島々の集まりではありません。
1956年5月18日付けのスマトラ中部州インドネシア共和国代表部令によると、
ナトゥナ諸島はインドネシア共和国内の領土の1つとして含まれています。
インドネシアの国境は明らかに上向きに湾曲しており、直線ではありません。
ナトゥナ諸島は、インドネシアを世界最大の島国にする主要なエリアの1つです。
ビンタン島からナトゥナ諸島への曲線が描かれ、その後線が下向きに湾曲して西カリマンタン州とつながりました。
歴史的な情報源に基づくと、ナトゥナ諸島はインドネシアとほとんど関係がないと言えます。
ナトゥナ諸島はインドネシアの他のオランダの植民地とは異なります。
スマトラ島、ジャワ島、ヌサテンガラ、マカッサル、パプアなど、これらの地域は1945年にインドネシアが独立を達成したときにオランダの元の植民地であるオランダから継承したインドネシアに属していました。
1824年に英蘭協約合意が成立しましたが、ナトゥナ諸島はまだマレー州の影響を受けています。また、1824年の条約は、ナトゥナ諸島をオランダの影響下であることは示されていませんでした。
1824年の条約が署名されたとき、ナトゥナ諸島は依然としてジョホール王国の管轄内にあったため、当時のイギリスの影響下にあるはずでした。
1957年にマラヤ連邦独立の際、ナトゥナ諸島はマレーシアにあったはずだと主張されるかもしれません。
しかし、マラヤ連邦が独立する1年前の1956年インドネシアはナトゥナ諸島領土として正式に認めています。
1962年~1966年マレーシアとインドネシアが対立していた6年前になります。
マレーシアは独立前イギリスが統治しており、ナトゥナ諸島の支配権を主張はしていませんでした。
マレーシアとインドネシアの対立は、インドネシアは、ナトゥナ諸島などのインドネシア国内の島々を結ぶ国境を引き、群島海洋国家になるために群島海洋環境を作り出す必要がありました。
一方、マレーシア政府は早くインドネシアとの紛争を終了する事に注力し、ナトゥナ諸島に対する主権主張の問題は優先事項ではなかった可能性があります。
今日まで、マレーシアはナトゥナ諸島をインドネシアの群島内の地域として認識しています。
1譲渡
売買(例:アラスカをアメリカ合衆国がロシア帝国から購入)
交換(例:樺太・千島交換条約)
割譲(例:下関条約での台湾取得)
2先占(無主地を国家が領有意思を持ち実効的に占有すると当該土地がその国の領土になる)
3添付(自然現象や埋め立て等で土地が拡張する場合)
4時効(土地を領有の意思を持って相当期間平穏公然に統治することで領有権を取得する場合)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナトゥナ諸島の場合4番の時効にあたり、他の国の反対なしに特定の領土を統制することによって主権を促進する国の行動を指します。
このことから、1956年以来、インドネシアはマレーシアからの反対もなく今までナトゥナ諸島を平穏に統治してきたと言えます。
地理と歴史の事実に基づくと、ナトゥナ諸島は確かにマレー半島と強い親和性を持っていますが、マレーシアがナトゥナの島々に対する主権を主張することは現時点では困難ということです。
歴史的な事実は、ナトゥナ諸島の関連性がインドネシアよりもマレーシア寄りであることが明確であること示しています。
しかし、インドネシアによるナトゥナ諸島の主権は、マレーシアによって今まで領土主張はなされておらず、現在ナトゥナ列島はインドネシアの領土であり続けています。