歴史は、侵略される者、侵略する者、両方の立場で語られます。侵略される者としては、最も暗い歴史の転換期であります。侵略する者にとって、新しい歴史の始まりとなります。
インドネシアのスラウェシ島のマカッサルにある17世紀の要塞です。ゴワ王国の既存の砦の上に建てられたオランダの要塞です。
四方を約7メートルの壁で囲まれています。要塞の内部には13の建物があり、そのうち11の建物は17世紀に建てられました。ほとんどは当時の状態で保存されています。
今のロッテルダム要塞は、かつてベンテンウジュンパンダンとしてゴワ王国の10番目の統治者であるイマンリガウによって建てられました。
ゴワ王国の砦として、オランダ東インド会社との戦争に対応した要塞計画の一環として、1634年に建てられた可能性が高いようです。
オランダ東インド会社提督スピルマンの到着後、インドネシア東部の多くの小さな王国がオランダ東インド会社に敗北を認めていたところでした。
1667年、ゴワ王国の16番目の統治者であるスルタンハサンヌディンは、
他の小さな王国が残っていない状態で、オランダ東インド会社に反撃するのに苦労していました。
スピルマン提督はゴワ王国の王位を奪取する絶好の機会であると考え、当時平和的な解決で知られるボンガヤ条約に署名することで最終的に合意しました。
ボンガヤ条約は、スルタンハサンヌディンとスピルマン提督の双方で署名され、インドネシアの領土であるゴワ王国が、オランダ東インド会社に敗北したという認識の宣言でした。
この宣言がゴワ王国の没落の始まりだったと言われています。
王や貴族は季節ごとに金品をオランダ東インド会社に送らなければならず、地元の商人は職を失い、人々は投獄され始めていました。
オランダの侵攻後ベンテンウジュンパンダンは破壊され、
1667年にオランダの提督スピルマンの主導で全面的に再建され、スラウェシのオランダ植民地の中心となりました。スピルマンの出生地にちなんでロッテルダム要塞と改名されました。
ゴワ王国のかつての誇りであるベンテンウジュンパンダンでさえ、ロッテルダム要塞と呼ばれる植民地支配の象徴となりました。
17〜19世紀頃、ロッテルダム要塞は主に商人、船長、首席秘書官、スラウェシ知事の住居として使用されました。
その時代、北西側にあった邸宅の1つは、オランダ東インド会社の総督であるスピルマンにちなみ、「スピルマンの家」と呼ばれることさえありました。
住居としての機能の他に、要塞は19世紀半ばまで兵器保管庫や教会としても使用されていました。
ロッテルダム要塞は、1930年代まではオランダ地域の軍事および政府の本部機能を備えていましたが、
1937年以降要塞は、防御としては使われなくなりました。
日本の短い占領の間、要塞は言語学と農業の分野で科学的研究を行うために使用されその後荒廃しました。
1970年代に、広範囲に修復されました。
最近では、建物は主に博物館として機能し、古代の武器、調理器具、スケッチなど、多くの歴史的遺物を保管しています。
北と南の壁に沿っていくつかの建物が当時のまま残っています。
現在ロッテルダム要塞はさまざまなイベントを開催するために使用されています。
ロッテルダム要塞はマカッサルの西側の中心部にあり、ロサリビーチの近くですので、訪問するには便利な場所になります。
興味深い歴史的建造物見ていると、異国情緒にあふれ静かに現在まで語り続けています。
ロッテルダム要塞はマカッサル周辺の壮大な歴史の一部であり、インドネシアの歴史を語る上で見逃せない建造物としてこれからも多くの人を魅了することでしょう。
マカッサルに訪問したら是非、ロッテルダム要塞に訪問してみてください。