3月28日にインドネシア・マカッサルで自爆テロが起きてしまいました。よく知る当地で起きた事件に対して、大きな驚きとともに、マカッサルはインドネシアの都市でもイスラム教が強い都市であり、テロについて考察したいと思います。
インドネシア南スラウェシ州マカッサルのキリスト教大聖堂で3月28日に事件が起きました。
インドネシア警察は、自爆犯はイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」を支持する過激派組織の男女2人だと発表しました。いずれも過激派組織「ジャマー・アンシャルット・ダウラ(JAD)」のメンバーだと発表しました。
今週はキリスト聖週間が始まり、4月2日は聖大金曜日となります。聖週間(Holy Week)の始まりを祝っていた信者ら約20人が負傷してしまいました。
インドネシアは、イスラム教が90%弱を占めて、キリスト教やヒンドゥー教など色々な宗教に囲まれています。今回、キリスト教会を狙った本当の目的は、まだはっきりしませんが、なにか教義をしたいための自爆テロであり、色々な考えがあってのものであると感じます。
本来、イスラム教は、ムハンマド自身が、「自殺者は地国の業火に焼かれる」と言い、イスラム圏は、自殺者が少ないはずなのですが、一方で、殉教やジハードのように、神のため、教えの為に死ぬことも教えとしては存在します。
しかし、現代世界において、宗教を標榜とするテロのほとんどが、宗教の教義ではなく、政治経済社会的な要因の方が多いのかと思われます。
イスラム教徒は、困った時は他の人から助けをもらい、それに応じる世界観があるはずなのですが、インドネシアでも貧富の差が大きくなり、経済格差も広がっています。本来、富の分配が行われるはずなのですが、そうでもなさそうです。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教と比較すると、ムスリムが最も貧しく、貧しさとイスラム教の歴史に対する怒りがテロとして掻き立てる面は否めません。しかし、経済的な不公平、機会の平等がない絶望がテロにつながると良く言われますが、実際には人々が明るい未来への希望を持って生活している社会であると言えます。
自分が死んで他人を傷つけ、それで考えを主張するのは、なにか間違っているような気がします。
本来宗教は、人が幸せに暮らすためにあると思いますが、このような事件が起こる度に、本当に残念でなりません。